青春シンコペーションsfz


第5章 フリードリッヒ、驚く!(3)


(優勝……)
心は強く波打った。
(本当に出来るんだろうか、僕に……。でも、やるしかないんだ)
震える手を握り締めて井倉はハンス達を見た。

「ここにあるのは僕の……。親父のせいで持って行かれてしまった僕のピアノなんです。出来る事なら、どうしても買い戻したい! そのためにはお金が要る。だから、優勝したいんです」
井倉は捲し立てるように一息で言った。
「OH! いいですね。井倉君、それくらいの覚悟で臨まなければコンクールを制する事なんか出来ませんよ。頑張ってください!」
ハンスも美樹も応援した。
「じゃあ、わたし、このピアノが売れないように、手付け打って来る」
そう言うと、美樹は軽くウインクして担当者の所に向かった。
「でも、今はお金が……」
慌てる井倉の肩を掴んでハンスが言った。
「大丈夫。それくらいなら何とでもなります。それよりも手続きが済んだら、急いで帰って曲を決めなくちゃ……」
話はとんとん拍子に進んだ。
「OKよ! コンクールの結果が出るまで残金の納入を待ってくれるって……」
美樹が笑ってそう言った。
(こんなに上手く行くなんて……夢みたいだ。頑張らなくちゃ……。そして、今度こそ自分の力で手に入れる。そうしたら、本当に何もかも上手く行く気がする。ピアニストとしてのデビューも、彩香ちゃんとの事も、何もかも……。そのためにも……)


家に帰ると井倉は早速ピアノに向かった。選曲は大事だ。課題曲とのバランスも考え、黒木にも相談した。その間に、美樹は申込用紙を探してくれた。
「締め切りは明日までなのよ。郵送では間に合わないから、明日、事務局まで直接持って行くしかないわね」
美樹が要項を見て言った。
「何時まで?」
ハンスが訊く。
「えーと……直接の持ち込みは5時までって書いてある」
「そうですか。明日は子ども達のレッスンがあるので、僕は一緒に行けませんけど、井倉君、大丈夫ですか?」
ハンスが心配そうな顔をする。
「ふふ。ハンスってば案外過保護なのね」
美樹が笑う。
「はい。地図もあるし、大丈夫です」
「私も一緒には行けないが、締め切りが5時なら迷ったとしても余裕だな?」
黒木が念を押し、井倉が頷く。

「それにしてもこれって随分大きなコンクールなのね。アレンジや連弾部門、管楽器や弦楽器などあらゆる部門があるみたい……」
美樹が感心するように言った。
「ええ。音楽会の一大イベントですからね。ここで優勝出来れば、まさしく将来を約束されたようなものなんです」
黒木が説明する。
(そ、そうなんだった。その恐れ多いコンクールで優勝するなんて言っちゃって僕……。今更だけど足が震えて来た)
鍵盤に置いた手がヒクつく。
「何、今の井倉の実力なら可能性があると私は思います。何しろ音楽祭ではあのルークでさえ認める演奏を披露出来たのですからな」
黒木が珍しく褒めてくれた。が、聞いた井倉の心は落ち着かない。
「いいえ。あれだけではまだ足りません」
ハンスが厳しい口調で言った。
「こないだの演奏は僕のコピーでしかありません」
彼は周囲を歩き回り、井倉の前でピタリと足を止めた。

「あれは確かにいい勉強になったと思いますが、それだけでは全然駄目なんです。井倉君にはもっと努力してもらわなくてはね」
「は、はい」
井倉は背後からの圧を感じて、思わずそう返事した。

その時、地下室に通じる扉が開いて、彩香とフリードリッヒが入って来た。
「そうだ。彩香さん、あなたへの良い課題を思いつきました」
彼女の姿を見るなり、ハンスが言った。
「誰のでもいい。あなたが最も尊敬するピアニストの演奏の再現をしてみてください。期間は2週間。いいですね? 何を弾くか決めたら僕に報告してください」
「再現……ですか?」
聞いた彩香の表情が暗くなる。
「それは、楽譜通りではなく、その人の演奏を真似るという意味ですか?」
「その通りです。これはいい勉強になると思いますよ。誰を選ぼうと僕は口出しをしません。でも、あなたなら、僕の意図を理解してくれると思います」
「なるほど。悪くない案だ」
フリードリッヒも頷いた。

それから彩香は部屋に籠もり、井倉は楽譜を見つめ、何度も弾く事を繰り返した。そして、夕方、ついに井倉は演奏する曲を決めた。課題曲ではベートーベンのソナタ14番とショパンのエチュード4番。そして、自由曲ではリストのため息。いずれも過去のコンクールで弾いた事があり、ブラッシュアップすれば十分使える曲だった。
「うむ。これなら期待出来そうだ」
黒木も太鼓判を押した。
「では、タイムを測って書類に記入するとしよう。あとは明日これを事務所に提出するだけだ」
「はい。今度は失敗しないようにします」


そして、翌日、井倉は午前中に基礎練習を済ませ、昼食の後、すぐに出発した。電車とバスを乗り継いでおよそ2時間。3時には最寄り駅に到着した。
(よかった。これなら間違いなく余裕だな)
腕時計を見た彼はほっとした。今日は同行者はなく、彼一人だったからだ。

事務所があるビルの手前で、井倉は華やかな集団とすれ違った。その中心にいるのはあの生方響だ。その彼を囲むように雑誌の記者達が取り巻いている。
(どうして彼がこんな所にいるんだろう? まさか彼もあのコンクールに出るんじゃ……)
そう思った途端、鼓動が跳ねた。
(そんな……聞いてないよ。あの生方響が出るなんて……。そしたら、僕なんかにはとても勝ち目がない……。どうしたらいいんだろう。一体どうしたら……)
逃げ出したくなるのを必死に抑え、彼はその集団を見送った。


「あれ? さっきの彼って井倉優介じゃないのか? ほら、学生コンクールで優勝した」
記者の一人が言う。
「ああ、音楽祭であのルークと同じ曲を弾いたっていう」
「そうそう。そして巨匠ルークを唸らせた男」
記者達が小声で言い合う。
「へえ。そうなんだ」
興味深そうに響が言う。

「彼も出るんすかね?」
「多分そうだろう」
「でも……」
腕時計を見た記者の何人かが顔を見合わせる。
「せっかくだから、あっちにもインタビューしたらどうっすか? コンクールに望む抱負とかいろいろ聞けるんじゃないかな」
「そりゃそうだけど、本命は君だからね。司君とはどう? 君達が出るって噂ほんとなの?」
「噂? 間違ってますね。司とはもう何の関係もありません」
記者達はざわついた。そもそも今日は、忙しいコンサートツアーの合間に戻って来た響がアレンジ部門のコンクールに参加するらしいという情報を聞きつけて集まっていたのだ。
「ケンカでもしたの?」
「音楽的センスが合わないんっすよ、奴とは……。それじゃ、俺も急いで事務所に届け出をしなくちゃならないんで……」
そう言うと響はエレベーターに向かった。


その頃、ハンスの家にはルドルフが訪れていた。
「どうだ? 例の件は上手く行きそうか?」
「うん。今、井倉君が申し込みに行ってる」
午後の陽射しがリビングに当たる。子ども達が来るまでにはまだ時間があった。
「それで? 優勝出来る確率は?」
出されたコーヒーを口に含むとルドルフが訊いた。
「逃げ出したりしなければ相当高いと思うよ」
クッキーをつまみながらハンスが言った
「そいつは大したもんだ」
「ふうん。やけに熱心だね。何かあるの?」
「実は……」
近寄って来た黒猫を見てすっと目を細める。
「あのピアノには馴染みがある」
「どういう意味?」
訝しそうな顔で男を見上げる。

「あれは昔、俺の家にあったんだ」

――持ってかないで! それはお兄ちゃんの大事なピアノなんだ!

幼い声が今もルドルフの胸の奥に響く。
「俺がまだ子どもの頃だ。両親が経営していた会社が破産し、家財のすべてを差し押さえられてしまった」
「まあ」
その話を聞いて、美樹が驚く。ルドルフはカップをそっと手で覆う。
「まさか遠い日本で再び会うとは思わなかった」
彼は静かにカップを下ろすと、森の絵を見つめた。
「でも、どうしてそのピアノだとわかったの?」
美樹が訊いた。
「右の足に傷が付いてただろう? あれは弟のミヒャエルが付けたものなんだ」

――見て! お兄ちゃんの名前書いたよ

「それで、その弟さんは、今どうしてるの?」
「8つの時、事故で亡くなった」
「そうだったの」
微かに睫毛を震わせて美樹が頷く。
「だから協力してくれたの? 井倉君のピアノを探すの……」
ハンスが訊いた。
「いや、偶然さ。俺は飴井に頼まれてたまたまルートを探っただけだ」
そう言うと彼は再びカップを持ち上げ、一口飲んだ。
「そうか。ルドの物でもあるのなら、どうしても取り戻さなきゃね」
ハンスが言った。
「それは井倉次第だろう」
「それは多分、大丈夫だよ。でも、いいの? 井倉君が取り戻しても、ルドの物にはならないよ」
「ふん。今更ピアノを弾く柄じゃないさ」
「ふふ。その気があるなら僕が教えてあげるよ」
ハンスが笑う。
「いや、遠慮しておく。それより、あのピアノを使って井倉がプロになってくれた方が何倍も嬉しい。そう伝えてくれ」
「ふうん。じゃあ、井倉君が優勝するように祈っててね」
「ああ」
彼は残りのコーヒーを飲み終えると席を立った。


一方、事務所に着いた井倉は窓口に書類を出して言った。
「これをお願いします」
「申込書ですか?」
「はい」
事務員が封筒から書類を出して確認する。
「申し訳ありませんが、これを受理する事は出来ません」
「何故ですか?  何か書類に不備でも……」
「受け付け時間を過ぎていますので……」
彼女は困ったように時計を見て言った。時間は3時12分を過ぎている。

「でも、書類には持ち込みの場合、5時までと書いてありましたけど……」
「はあ。しかし、最終日だけは例外で15時となっておりまして……。残念ながら受け付ける事は出来ません」
「え? そんな……確かに5時って……」
井倉は書類を受け取ると急いで確認した。
「ここに……」
指で辿る。が、そこには確かに15時と書かれていた。1の文字が擦れてかなり読みにくくなっているものの、誤りではなかった。
「そんな……。何度もみんなで確認したのに……」
(やっぱり駄目なのか。僕一人じゃ……。ハンス先生と一緒でなきゃ、奇跡は起きないというのか……)
「お願いです。このコンクールにすべてを賭けてるんです。受け付けてください。お願いします!」
井倉は何度も頭を下げた。
「何とおっしゃられても決まりは決まりですので……」
事務員は申し訳なさそうに首を横に振った。

「そんな……」
井倉は目の前が真っ暗になるのを感じた。
(もっと早くに出ていれば……。そうだ。午前中に出て来れば……。どうして午後にしてしまったんだろう)
後悔が胸を抉った。
(どうしよう。今更手続きが出来なかったなんて、どう言ったら……)
井倉は途方に暮れた。

その時。
「井倉君」
数人の男が来て彼を取り囲んだ。
「君、先日の音楽祭でルークと同じ曲弾いてた井倉優介君だろ?」
「え? あ、はい」
「君もコンクールに出るの?」
「抱負を聞かせてよ」
彼らは雑誌の記者だった。
「抱負と言われても僕は……」
まさか数分の差で申し込みが出来なかったとは言えなかった。
「ねえ、いいでしょう?」
「実は生方響君もこのコンクールに出るそうなんだ。君、彼と同じくらいの年だよね? 彼についてどう思う?」
(生方響……やっぱり彼も出るのか。なら、僕は出なくて良かったかもしれない。恥をかかなくて済んだ。でも……)
「ねえ、一言だけでいいんだ」
記者達は迫った。
「そう言われましても……僕は……」
井倉は困った。嘘を言う訳にはいかないし、ここで逃げてもすぐにわかる事だ。
(仕方が無い。ほんとの事を言おう。)

「僕は……」
井倉がそう言い掛けた時、
「あは。困るなあ。勝手に彼を独り占めしちゃ……」
記者達の背後から当の生方響が来て言った。彼は井倉の肩をぐいと引き寄せて、囁いた。
「ははん、時間外ってか?」
井倉が手にした書類を指差している。井倉は出せなかった申請書を隠すようにして頷いた。
「いいさ。俺に任せろ」
耳元で囁く。
(何をどう任せろと言うのだろう)
井倉が戸惑っていると、響はいきなり肩に腕を回して言った。
「あんた達は運がいいぜ。俺達新コンビの誕生を最初に拝めたんだからな」
「え? 新コンビってその……」
井倉は驚いてその顔を見つめる。響は片目を瞑ると、にこりと微笑み、記者達に向けて言った。
「このコンクール、アレンジ連弾部門で、生方響と井倉優介のコンビで戦う事をここに宣言します」
「えーっ?」
「それ、ほんと?」
「こいつはすごい! ビッグニュースだ」
記者達は一斉に色めき立った。

「そ、そんな、困ります、僕……」
井倉は慌てて否定しようとしたが、その声はシャッターの音に掻き消された。
「僕は……」
おどおどする井倉に構わず響は言った。
「どう? 驚いた?」
響が笑う。
「いや、ほんと、驚いたよ。噂では、君、伊藤司と出るって聞いてたけど……」
「司? ああ、駄目駄目。あんな奴。昨日もそれで揉めちゃってさ。音楽的センスが合わないんっすよね、俺達」
「じゃあ、井倉君とはどうなの?」
「それはこれから……。でも、あのルークを唸らせたというからには俺、結構期待してるんですよ。きっと上手く行く。な? 井倉」
「で、でも……」
「おっと、じゃあ、出演者の変更届けを出さないと行けませんので、今日のところはここで終わりね。正式な会見はあとでやりますので今日のところはお引き取り願います」
そう言うと響は手際よく記者達を追い払った。

「あ、あの、どうしてあんなこと……」
記者達がいなくなった後で、井倉が訊いた。
「おまえだって出たいんだろ? コンクール」
井倉が丸めて持っている申込用紙を突いて言った。
「それはそうだけど……」
「時間切れで出られなかったなんてカッコ悪いもんな。丁度良かったじゃないか。さっさと手続きしちまおうぜ」
そう言うと彼は窓口に行き、申し込みの変更を申し出た。

「でも、もう時間は過ぎて……」
井倉が言った。
「俺はもう手続きは済んでんだ。昨日揉めちまった後にさ、事務所に電話したら、変更があるなら閉室までに申し出てくれって言われたんで、一応話は通ってるんだ。もし、おまえとここで会わなかったら、今回は出ないつもりだったんだ。ギリギリ間に合ったよ」
「そ、そんな……」
「さ、ここにおまえの名前と住所を書けよ」
言われて井倉は仕方なくその通りに書いた。
「OK! それじゃ、これでお願いします」
響はさっさと用紙を出してしまった。
「でも、曲は?」
「おまえの分のソロはラフマニノフ。連弾はブラームスのAパート。アレンジの曲の楽譜は後で送るよ」
彼が歩き出したので井倉もその後に続いた。

「ああ、今日はラッキーだったな。司と喧嘩しちまった時はどうしようかと思ったけど……。おまえに会えて、ほんと、よかったよ」
「そ、それはどうも……」
「じゃ、俺、急いで帰らないといけないんで」
建物から出ると彼が言った。
「帰るって?」
「俺、まだツアーの途中だし……夕方の飛行機でミラノに行かなきゃなんだ」
「ミラノ?」
「本線までには1か月もあるし……。来週には帰国するから、その後、ちょちょっと合わせりゃいいだろ?」
響は涼しい顔で言った。
「そんな……とても無理だよ。僕にはとても……」
が、井倉が反論する前に響はタクシーを止めて乗り込んだ。
「そんじゃ、後で連絡するから……。急ぐんでよろしく!」
そう言うと彼は行ってしまった。
「待ってください、生方さん!」
しかし、車はあっと言う間に見えなくなった。


家に戻った井倉の話を聞いたハンス達は一様に驚きを隠せずにいた。
「それはいけません。いきなり難易度の高い連弾なんて……」
ハンスは頭を抱え、
「何故、無理だと断らなかったんだ?」
黒木に叱責され、
「君にラフマニノフは弾けない」
フリードリッヒは宣言した。
「だから、僕も言ったんです。だけど、彼が強引に……」
「今更、そんな言い訳しても仕方ありません」
ハンスはすぐに練習を始めるように言った。が、弾かせてみれば、やはり技量の穴が目立つ。

「彼、生方響の連絡先は?」
黒木の言葉に井倉ははっとした。
「聞いていません。夕方の飛行機でミラノに行くと言って急いで立ち去ってしまったんです」
「連絡も取れないってか。そいつは困ったな」
「でも、アレンジの楽譜を送ると言っていましたので、それが届けばわかるかもしれません」
「送るだって? ミラノから? それでは1週間かかるだろう。どうするつもりなんだ」
黒木が困ったように口の中で呟く。
「問題はソロだ。これ1曲だけでも難題だ」
フリードリッヒが言った。
「それでもやらなければね。井倉君、もう一度死にますか?」
ハンスがにこりと微笑んだ。